2013年分


12/31(水)

ほとんどこちらには投稿してませんが。
2014年も終わろうとしています。ありがとうございます。
投擲は細々営業しております。
来年は溶接を習得して、修理できるものを増やそうと思います。

小瀬談


9/25(木)

45m越えの自己ベストでシーズンを終えた星出くんの投動作バージョンアップに取り掛かります。
ポイントは3つ。

1.身体重心の上下のコントロール
2.しなり動作によるやりのリフトアップ
3.骨盤前傾を主導とした身体起こし回転の高速・大型化

全部うまくいったら一流選手。

小瀬談


8/21(木)

星出君の奈良ユース1年やりの結果は4位。43m00(自己新)。
次頑張ろう。

某中学教員のH田先生が少し顔を出しましたが、相変わらず芸術的な利き腕の振り切り軌道。

小瀬談


7/29(火)

たまに跳躍福田コーチがやりを投げに来ます。
野球とかハンドボールの普及してない国の、それでいて十種競技8000点越える競技者みたいな投げをします。
自身の専門種目でかなりのレベルまで到達した方で、その経験をベースに創意工夫し奮闘する姿は、こちらも勉強になります。
今日来てくれた西川君といい、感覚の研ぎ澄まされた人から得るものは多いです。
にしても、秋田コーチといい、丹羽夫妻といい、栗原コーチといい、みなさん体が動きすぎます。

小瀬談


6/12(木)

たまには書きましょう。

最近聞いた話で印象に残っているのは、投擲物に名前をつけて愛でるように投げたらいい飛び方になるっていう。
手から離れた瞬間から純粋に物理法則にしか従わないですから、飛び方はすべてを表してます。
やりだと、 穂先が上がるとか胴体着陸するとか、単純に間違ってるんです、投げ方が。

穂先上がるんは、肘が低いからじゃないですよ。穂先上げて構えてもきれいに飛ばせますから。
押してる間に穂先が上がってるんです。具体的には手首が抜けてる場合が大半です。肘が下がって問題になるのは、一旦下げてからまた上げるという動作をする場合です。
肘は上がり続けるか高さを維持する以外は絶対だめです。一旦下げて上げるのは、すごく上げてる気分になれる自己満足です。それまでの力の流れをすべて無駄にして改めて腕力だけ発揮してるだけです。
胴体着陸は、放物線を描くべきところで描かないわけで、実は穂先が上がってるのと全く同じです。力がまっすぐ伝えられてません。ここは本当に勘違 いするところです。突き刺しレベルからできてないとだめです。
穂先から刺さって胴体がぱたんと地面に着くのもだめです。エネルギーと距離が会ってない。そこら辺を繊細に一致させる感覚がない限り、技術なんか向上しません。
できないんなら、常に100%で投げるしかありません。そもそも、60〜70%の投げなら、もっと正確に投げれるはずで、その程度の出力で正確に 飛ばせないなら、100%全力で投げて飛ぶはずがないです。
理屈は分からなければ理解するか、まったく考えないかのどちらかです。投擲の場合、先ほど述べましたように、手から離れた瞬間から物理法則に従うだけですから、きれいに飛んだらそれが正解です。
一番あてにならないのは自分の感覚。自分自身にも嘘をつくし、経験してない感覚は分からない。つまり、伸びた成長した自分の感覚は、現在まだ伸び てない未熟な自分には決してわからない。

小瀬談


4/22(火)

IQテストや公務員試験の一次では、必ず数列の問題が出ます。
高校の文系レベルの数学で学ぶ数列をしっかりしておくと、IQが高めに出たり、公務員になりたいと思ったとき便利です。
もともと数学的ひらめきの能力を問うために設問されていると思われるこの分野、小学生の知能テストでも出ますが、高校でこの分野を習うことで、ある程度まではマニュアル的に答えが導き出せるようになってしまう。高校で習う代表的なものが、等差数列、等比数列、階差数列です。
等差数列は、同じ値(公差)を順に足していく。等比数列は、同じ値(公比)を順に掛けていく。階差数列は、値と値の間が数列になっている、というやつです。大体これで目星がつけられる。
で、等差数列と等比数列はそれぞれ公式があるわけですよ。
しかしだ、高校生にこれらを教えると、公式まずありきと解釈して、世の中の数列はこの2つとそれ以外と考えてしまう者がいるわけよ。そっちの方が 多いかな。
でも公式はしょせん解釈に過ぎない。実は、本来定数である公差、公比を変数n、あるいはnを含む関数にしてしまうと、等差数列を等比数列の公式で 表現することが可能になる。その逆もありだ。
つまり、公式は道具に過ぎない。真理ではない。

↑「基本」という概念について、思うところを述べた文です。何が何の比喩になっているのでしょう。
どんなにオリジナリティを追及しても、既存の「基本」で説明は可能だ。それをどう考えるべきか。
まず「基本」ありきと考えて、あらゆる事象を「基本」の拡大で説明していくのか。
あるいは、どんな「基本」を自分で考えだしても、それぞれは解釈の仕方でどんな事象も説明可能になってしまうのか。
いずれの立場にせよ、「基本」は真理ではなく、道具に過ぎない。

で、数列だと、まあ公式を勉強するのは有利ですが、直感で答えを出せる人には勝てない気がするんだな。本当にIQ高い人には。
同じようにですね、理詰めで理解・会得された「基本」は永久に真理に到達しないように感じるのですよ。
天から才能を与えられてない人は、それでも考えなければならんわけですが。
考えなければならんのだよ、繰り返すが。

小瀬談


4/12(土)

間が空きました。
今は火曜だけ岡本君のやりを見てます。

基本、大人の練習は眺めるというスタンスになってます。
考えることは多いです。
最近身に沁みるのは、オリジナリティの追求は、可能性をたくさん閉じることだということです。
覚悟が必要。

小瀬談


3/18(火)

やりはなぜ上から投げるのかを考えてみる。

まずは解剖学的見地から。
腕を頭上に差し上げる時、上腕を肩関節の最大可動範囲で動かしてもスリークォーターの位置までしか上がらない。
そこで肩甲骨を反時計回り(右利き)にスライドさせて、ようやく真上に差し上げられる。この感じは脱力して鉄棒にぶら下がると実感できる。
肩甲骨周りが固かったり、テニスのサーブみたいにかなり真上に差し上げたいなら、脊椎を左(右利き)に曲げることになる。この時おそらく頭の重さを使う。
これほどまでしないと、腕は上に持ってこれない。

ただ、肩甲骨をスライドさせる動きが、逆にその後の腕を振り下ろす動作のネックになる。
正面を向いた状態で差し上げた腕を真下に振り下ろすとき、腕の動作に肩甲骨周りが関与する感じが少なくなる。
つまり、純粋に肩周り前面と腕だけの力の入れ具合になる。
体に巻きつけるように腕を大きく使いたいなら、少し斜めに振り下ろす。肩甲骨を前にスライドさせる。
そのためには肩甲骨を極端に上にスライドさせてはいけない。前に行かない.

こうして考えると、腕を目いっぱい振り回せるのは、実は円盤投げのような軌道だということになる。
じゃあ円盤投げのようにやり投げもすればいいのか。そう簡単にはいかない。
円盤のノーターンはどんな感じか。どこから力を入れるか。
肩が入った状態でボディターンして、伸長収縮反射で振り切る。
これをやりですると、肩を入れたまま開くまで腕を残して、身体が正面を向いた時点で腕を振る。力の流れは直線でないのに、それを無理に直線に変換する。
腕は目いっぱい振れているように見えるが、実は最後だけである。直線への変換がさらにその点を助長する。
やりを構えてからトップに持ってくるまでが、ただ流れているだけのもったいない局面になる危険性が高い。

では上から投げるメリットは何か。
おそらく、振り切りがしにくい分、やりを構えてからトップに持ってくるまでに最大のスピードと力を加える必要があって、それが意外に重いやりを投 げるのに適しているのだと考えられる。
この局面の体の使い方は、実質全身の並進運動である。直線への変換はやりやすい。
ただ、ゆえに投げの後半=振り切りの局面が、ただ流れていくだけのものになりやすいのも事実である。
対処法としては、ぎりぎりまで開かない=トップに持ってくる局面自体をできるだけ後に残す。
そして、正面を向いた局面で止まらない=右肩を前に突き出すようにする。
2番目は、ここまでしてまで振り切りを強調する必要があるのか、と言われなくもない。

やりは武器として直線的に正確に飛ばすことが優先されたため、必ずしも動きやすいとは言えない上からの投げを採用している。
そのため、構えてからトップに持っていくまで、右足接地から左足接地までに最大のスピード、力を発揮しておく努力をするのが必須である。
ただし、左足接地から更に加わるスピード、力を有効利用するためには、投げの後半にかなりの工夫を加えないといけない。
これは言い替えると、構えてからトップに持っていくまでをそこそこ極めるだけで、まあまあいいところまで行くことを意味する。

小瀬談


3/11(火)

月いちです。

細かく口を挟まずにいることを心がける。

小瀬談


2/1(土)

いつの間にか年が明けてました。

「三つ子の魂百まで」ということわざがありますが、もしかしたら最初に教わった技術体系は、その人のファームウェアとなってずっと残るのではない かと思うようになってます。
例えば、速く走るためには足をできるだけ早く離地させて鋭く接地させる、さらに上下動を抑えるために接地はひっかくようにする、というように教 わった人たちは、よほどの覚悟がない限りずっとその技術から逃れられず、同じ練習手段を繰り返すことになるのではないか。
ファームウェアの異なる運動は、まったく別物と考えるべきではないかと最近思います。
トップアスリートを見てそこから本質を探るのは研究者・指導者の使命ですが、どんなに客観的になってるつもりでも、いつの間にか解釈、思い込みが 入ってくる。
それ自体は決して間違いではない。しかし、すべてを包括する解釈は存在しない。

80年代を席巻した短距離カール・ルイスを見て、その重心の高い、腿の高く上がった走りに魅了された人たち。
90年代のやり投げスティーブ・バックリーを見て、上半身と下半身は90度ねじれていて、クロスの右脚がぐいぐい前に出されるのが理想的に思えた人たち。
これらの技術の印象は90年代半ばに、当事者や指導者によって否定されています。そんなことはしていない、と。

高校時代にどんなきつい練習をしてようが、大学時代にどんなに時間をかけて練習してようが、基本、自分が知っているのは自分がしてきた練習だけで、自分のファームウェアに縛られている、ということです。
競技者として順風満帆なうちはそれでいいだろう。しかし指導に回ったらこれは絶対に駄目だ。ファームウェアが無数に存在することを知るべきだ。
競技者として壁にぶつかっている者もそれではだめだ。自分のファームウェアを変えること、それはこれまでの自分を捨てること。
この言い方では厳しさが伝わらない。これまでの自分を台無しにすること。かけた時間を徒労にすること。
「今までの苦労は無駄にならない」なんて似非ポジティブな言い草など何の足しにもならない。無駄にするつもりがなければ何も変わらない。

だから、競技者に必要なのは、心置きなく過去の自分を台無しにできる、「時間」だと思うのです。
1年を10年分くらいに使えるような。これは金では買えません。金で買えるのは1年を2.5年分くらいにする程度。
なぜならば、人間は老いるからです。

小瀬談