2012年分


12/19(木)

関西に戻って14年過ぎますが、何て言うか、競技を独りで継続する、という発想にあまりお目にかかれません。
所属する団体との決別=引退、という感じですかね。100%全力で練習できなければもう一切しないということでしょうか。
競技復帰=別団体に所属、という感じもする。
何なんですかね、みんな「部活動」が好きなのですか。競技そのものじゃなくて。

高校も大学も、その環境に一番合っているのはその年代だけと思うんですよ。
卒業後もそこを拠点にするにしても、同じことはできないし、同じ効果も期待できないし、そもそも自分も後輩もお互いいい影響を与えてないと思うのね。
環境を変えない長期養成の利点はよく言われることですが、まったく同じことを10年以上繰り返しているというわけではないと思うのです。
場所は変えなくても、3年ぐらいで指導スタッフが変わる、周りのメンバーが変わる、練習方法が変わるものだと思います。

長く続けることによって、自分の積み上げてきたことが維持できなくなる事態にも直面して、そこから自分流を作り上げて、結果以前よりも高みに行 く、のが理想なんじゃないでしょうか。
で、あまりそういう人に会わないんです。

小瀬談


12/3(木)

アスリートは身体に関することが押しなべて規格外です。
最大筋力しかり、最大スピードしかり。持久力も耐久力も、一般人の想定する範囲を凌駕します。
しかし忘れてはいけないことが一つある。追い込んだ後の疲労も、一般人が一生経験しないレベルだということです。
これは何もトップアスリートだけの話ではない。みなさん忘れがちですが、世の中のほとんどは運動なんてしてません。
中・高の部活程度で、この国では「すごく」運動している人になる。
で、「すごく」運動している人たちは、世間の中高年、老人の疲労よりもはるかにきつい疲労を日々経験している。
そして、時折抵抗力が信じられないほど低くなる。競技体力を追及することで防衛体力の安定性が下がるのである。
結果、わけのわからん怪我したり、風邪がすごくしんどいことになったり。

左肩痛いとのた打ち回ってる間に、メディシンボール3㎏(青色)を袋ごと(水色)なくしたようです。
誰か見つけてないかしら。これまでそうやって見つかったためしはないですが。

サッカーがあり、マラソンがあり、ボクシングがあって、いろいろ考えます。
ラグビーとかバレーボールとかゴルフもありましたが、興味ないので却下です。
基本、自画自賛が目に余るものは却下です。
サッカーファンの厳しさはいつも思うところがあります。的を得ているようなものから的外れなものまで、おしなべて厳しい。あれくらいでないと強くなれないのかなと思います。
マラソンはなぜ上層部のてのひら返しな態度がいつも話題になるのでしょうか。
それでナショナルチームを作ってもぶれずにやっていけるのでしょうか。
市民マラソンには興味ありません。する人が楽しめばそれでいいと思います。
ボクシングはあの兄弟を見ていつも思うのが、メディアを通してスポーツを見ても決して精通できるようにはならんのだなということです。
あの局は今は陸上も大々的に放送しているが、基本皆さんが思うように、ひどい。スポーツに関しては、中継も報道もひどい。
何がひどいって、お前らの演出がひどい。
それを言うと、バブル期に傘下のプロ野球絡みでどんなスポーツも中継・報道してきたあの局とか、注目している対象だけヘビーローテーションする半島好きのあの局とか、オリンピックになると名文句を残そうと躍起になる国営放送とか、地味に水泳だけ放送するところもありますね。卓球を放送して いることを知られてないところとか。
どこも「普通に」見せてくれない。それが偽らざる印象です。

小瀬談


11/28(木)

月一更新でございます。

アスリートは身体に関することが押しなべて規格外です。
最大筋力しかり、最大スピードしかり。持久力も耐久力も、一般人の想定する範囲を凌駕します。
しかし忘れてはいけないことが一つある。追い込んだ後の疲労も、一般人が一生経験しないレベルだということです。
これは何もトップアスリートだけの話ではない。みなさん忘れがちですが、世の中のほとんどは運動なんてしてません。
中・高の部活程度で、この国では「すごく」運動している人になる。
で、「すごく」運動している人たちは、世間の中高年、老人の疲労よりもはるかにきつい疲労を日々経験している。
そして、時折抵抗力が信じられないほど低くなる。競技体力を追及することで防衛体力の安定性が下がるのである。
結果、わけのわからん怪我したり、風邪がすごくしんどいことになったり。
車を改造しすぎて、日常乗りに支障をきたすようになってる感じ。同じ走行距離なのにエンジンのへたりがすごいとかね。

小瀬談


10/31(木)

右足接地からリリース直前までを投げの原動力を生み出すリソース局面、リリース直前からフォロスルーまでを生み出した力を投射に変換するブラッ シュアップ局面と定義します。
ブロックは前半。
リソース局面とブラッシュアップ局面は重なっています。ここを分断すると、置きに行く投げになってしまいます。
理想を言うならば、この2つは1つと考えるべきなのですが、動作習得を容易にするための局面分けとみなします。

リソース局面で投げをブラッシュアップさせようとすると、肩を入れてテイクバックを大きくするとか、投げの開始前の大きさを高める方向に行ってしまいます。
しかし、これはゴムのパチンコの射程を長くするためにゴムを長くするが、引っ張る長さよりも長くしてしまうのに等しい。引っ張った時ゴムがたるん でいる。
肩を柔らかくすることが、投げの開始時のタイミングの遅れを生んでしまう。
だから、ブラッシュアップは、肩や背中を柔らかくして、投げの後半を大きくするべきなのだと思うのです。

小瀬談


10/12(土)

口を出さない程度の見極めが未だできてません。
今日はうまくいっている方だと思います。

こなす練習、自己満足な練習を回避するには、自分が進むべき道が見えるような練習をすべきだと思うのです。
そういう意味で、「今完成していない動きをする」。満足できなかった度合いがそのまま明日の課題。

小瀬談


9/24(火)

やり投げの指導で必ず耳にするのが、「腕で投げずに体を使え。腕はシンプルに下すだけで良い。」というのがあります。
後半の部分が疑問です。肩関節も肘関節も、蝶番状の動きではありませんし、手首の底屈・背屈はやりの保持方向には行われません。
いったい誰が、このような無責任な発言を過去にしたのでしょうか。

シンプルな古典力学に則って言えば、確かに運動は初期条件ですべて決まります。
だから、構えはとても大切です。
しかしですね、まっすぐ投げるためにまっすぐ構えても、腕の動きにまっすぐな要素がほとんどないのですよ。
投げに限らず、非循環運動の極致ともいえる直線運動が、人体のどこに生まれつき備わっているのですか。
確かに、その点を逆に曲解して、「動きの究極は円にあり」と、安易な原則?回帰したがる人種もいますが。

運動指導の現場には似非科学が蔓延しているように感じます。
だから自然科学至上主義者が、各スポーツのトップででかい面をするのです。
もしかしたら、ほかのどこよりも学歴至上主義な世界かもしれませんよ、みなさん。

小瀬談


9/14(土)

武田君が独自の技術体系への道を歩もうとしています。
ようやく次のステージの入り口です。
私もしたことのない投げの技術体系なので、ここからは上から目線の指導ではいけません。
想像力を豊かにして、考え抜く。

小瀬談


9/10(火)

先週から跳躍の岡本くん高1が、火曜限定でやりを投げに来てます。
この夏、初心者に何人か接する機会がありました。
実際には他種目でそこそこ経験を積んでいる人たちばかりですが、特に本人に強い要望でもない限り、現在の特性を活かすのが最善策です。
優秀な人たちばかりです。

小瀬談


8/20(火)

練習環境を維持するために奮闘しているこちらの神経を逆なでされるようなことがあったり、競技場を使わせてもらっているということを忘れている要望があったり。

最近若人の同窓会のような練習状況になってます。まあ、学生も社会人も共に休みなのは盆と正月だけだ、昔から。
中学生の頃、円盤でもやりでもセンスのかけらも見いだせなかった女性が、砲丸を6年以上続けて日本100傑内に入るようになった今、妙にやりが上 手かったりして、何か自分の底の浅さを感じています。
・・・この人が今からやり投げをじっくりしたい、と言い出したら、私は何年で何メートルまで記録を伸ばさせることができるだろうか。
1年で40m。これはできる。35m弱なら先例もある。
45m。うっすら存在する壁。教える側よりも、教わる側のモチベーションが問題になる。
50m。何年かかるかな。3年かな。

小瀬談


8/17(土)

近況

諸事情で、今年は試合に追われてあたふたすることがありません。
その代わり、自分の考える技術や練習を考え直す時間が増えています。
悩み、考えなければならないのは選手だけではありません。自分が動かない分、指導者は考え抜かなければならない。考えるのは陸上のことだけでいいから、尚更です。

小瀬談


7/11(木)

今日は国体選考の〆切ですが、出場しません。
理由は、今日試した練習の出来があまりにも悪かったからです。

今年度のテーマは、もっぱら「腕を置きに行く投げをいかに解消するか」です。
一般的な解消法は、投げ腕の動き出しの立ち上がりを爆発的にする、つまり、最初からぶっとばしていく、という方法です。
しかしこれは、成功例はかなり少ないと思います。
実際のところ、投げの後半で爆発させる傾向のある者が、投げの前半に爆発させる箇所をシフトさせているだけで、力を加える区間は短いままで、本質的に何も変わってない。
だから、砲丸みたいに重たいものを投げる時に見られる、じわーっと力を加え続ける投げをいかにやりでするか、ということになる。
じゃあ、ということで、思いついたことを試してみました。

スポーツをある程度真剣に、まじめに取り組んだことがある者なら、こんな練習実際にするかボケ、という類のものがあります。
スピードを増加させる目的で、手足の末端に重りをつけて動く、というやつです。
手段自体は別にかまわないのですが、足を速くするためとか、ばねを強くするためとか、そんな目的で足に重りを巻く奴。
一言で言いますよ、「あほか」。
持久力は増すと思います。で、スピードはつきません。きちんと証明されてます。
このあほな練習を、じわーと力を発揮する体感をさせるために、腕の先に300gの
重りを巻いて、突き刺しでしてみようじゃないか、というのが今日 の練習。

・・・誰もしないだけあって、見事に中途半端な結果でした。
45分で20数本の突き刺しをしてみましたが、前腕のコントロールが雑になるのが一番の感想です。体幹の疲労は半端ないです。
別のことがわかりました。やりを巻く、という動きを生む原因です。
やりを巻く、という動きは、前腕のコントロールでは何も解決できない。腕を置きにいった時点で、もう修正できない。
前腕ではなく、上腕の動きが原因だからです。その上腕の動きは、やりの下に潜る、という動作がもとで生み出される。
横に振られる、のです。絶対に。左右非対称な動きだから、絶対に出るのです。
さらに、予想通り、やりの穂先を巻くのではなく、やりの尻が後ろで外に振られることで起こる。
フォロースルーの修正なんかでは「絶対に」修正できないと思います。
長くなるのでここで切ります。

小瀬談


6/11(火)

肩で弾く投げって、正解でしょうか?

やってみていつも思うのですが、この投げの先が見えません。
最近、私はこのイメージは、日本に誤って伝えられたマック式スプリントドリルに匹敵する、誤ったイメージではないかと思うようになってます。

「弾く」動作が見られる外国の投げと言ったら、まずは北欧・フィンランド式。
いわゆるチェーンリアクション、スネークモーション。
しかし、実際の練習風景は、巨大な身体を大きく湾曲させます。スネークモーションは上下にも前後にも大きく動きます。
「しなる」「弾く」動作を、最初から強引に大きく準備する、という趣です。

次はイギリス。
腰が正面を向いて腕が遅れて出てくる。
しかしナショナルチームが練習を公開して、講演を各国で開いたとき、予想に反して、彼らは、
「肩は入れない、腰は捻らない、軸は前の左足」
とのたまった。身体後傾を極力否定した。
その代わり、速い動きの中でしなりが自然に生じるためのフィジカルトレーニングを重視している。
つまり、「弾く」動きが自然に起こるように仕向ける。

ドイツ。
巨体を倒しこむイメージが強いが、高い保持からショートレンジで「弾く」動きをしているように見える。
フィンランドでもこの動きをするタイプが多いと思う。
身体全体の起こし動作が、まるで五体投地みたいで、身体の重みをこれでもかというくらい利用する。
身体全体が腕で、肩から先はまるで手首のスナップです。

要するにですね、肩「だけで」弾く投げなんて、存在しないんじゃないでしょうか。
ここ最近私が主張する、「前への抜け」がスムーズな者に、後天的に付け加えて効果が発揮される投げなんじゃないかと思うのです。
日本の男子やりの長年の停滞は、「弾く」という呪縛なんじゃなかったのか、とも思います。

腕、思いっきり振らないとだめだと思うんですよ。

小瀬談


6/1(土)

IH県予選の男子やりを見に行きました。あ、男子200mも。
個人的に関わっている選手の結果は概ね満足できるもので、技術的な話は今回は割愛します。
それよりも、「コンディショニングの妙」たるものを見せ付けられ、指導の奥深さにひとしきり反省。

若き十代の頃、コンディショニングとか調整とかは、「鍛錬」の重要性が10だとすると1くらいにしか思ってませんでした。
競技中のメンタルのタフネスさなどは0.5くらいです。
これは、自分が現役競技者であって指導者ではないことと、陸上競技のように1対1で行わないがゆえの「記録」に対する過度な価値によるところが大 きいと思います。
記録さえ出れば、試合で負けても陸上競技としては成功。
この考え方は、球技や格技をする者からすれば、甘ったれた覚悟の無さに見えていることでしょう。
言い方を変えてみましょう。
同じ記録水準の者を集めます。その中に「いつも勝つ人」と、「いつも負ける人」がいるはずです。最高記録が同じでも、この両者は同じレベルとは言 えない。
「いつも勝つ人」は最高記録の10%増しくらいの記録の価値があり、「いつも負ける人」は最高記録のマイナス10%くらいの記録の価値しかない。
それくらいの大きな隔たりがあると思います。
コンディショニングとは、ピーキングを試合当日に合わせる計画性、最高の状態でなくとも最善を尽くすリスクマネジメントなど、シビアに勝負に徹するための手段の総称だと気づいたのは、競技人生末期でした。非常に後悔しています。

「同じ記録の相手なら、たとえ自分がどんな状態でも絶対に負けない。」これが求める姿です。
自分をプロデュースするには、自分を冷徹に眺める指導者・プロデューサーの目線が必要です。
競技が好きか嫌いか。熱い思いがあるかないか。私に言わせれば、そんなもの、何の足しにもなりません。大切ですが、自分の中で秘めておくべき事柄です。

まだまだやること多いなぁ。

小瀬談


5/25(土)

若干、怒りモード。

「量より質」とは、量を追求したことがある者だけが言うことを許される言葉です。
スポーツでも、学問でも。
一日が40時間くらいないと間に合わない、という絶望から、質を高める努力を本気でしだすのです。
何度も言うが、スポーツでも、学問でも。
学校の勉強なんて、質を追及しなくても、一日12時間くらい勉強すれば、全国偏差値65くらい簡単に到達する。
なぜだかわかります?
わかってても時間をかけない連中が大半だからだ。この連中が下のほうに居座ってくれるおかげで、大して学力も上がってなくても偏差値だけは上がっ てくれる。
勉強したくないから勉強しない。ほとんど努力なんてしてない。つらいことを我慢することが努力だと思っている。浅い。薄い。
でも、その先に壁がある。丸暗記や、パターンの暗記だけではどうしようもない壁がある。ここをきちんとしないと、大学に入ってから苦労する。
スポーツも同じだ。
同じったら同じだ。

マンツーマンで練習を考えるときは、遠慮なく特殊なこともしますが、たとえば○○ブロック、パート長なんぞになったりして、集団で練習するメ ニューを考える立場になったとしましょう。
(ちなみに、私は大学時代、やり投げパート長でした。高校時代に県大会を突破していない者で、その役職に就いた者はおそらく現在に至るまで私以外 には一人もいないはずです。当時の私の周囲の人たちは何を考えていたのでしょう。)
練習のクオリティをあげるためにはどんな練習メニューを組むべきでしょうか。
量は、時間の制約で限度があります。内容を凝ったものにするべきか。しかし、全員の理解を得られるか。そもそも、あれもこれも手を出していては時 間が足りなくなるのではないか。
そこで、逆に内容をシンプルにする。実際にする人間の自由度を増やす。時間も余裕を持たせる。
そうすると、サボるものは心置きなく最小限で帰り、+αを求めるものは自分で追加する。シンプルな内容も、各々の考え方で見事に別々のことをして いるかのような状況ができあがる。
極端に量を減らすと、みんな不安になるのか、この傾向は強まります。
これも、ある程度量をこなすことに慣れているものが大半なことが前提です。

量をこなす経験が乏しい集団にこの方法を採用すると、みんなサボります。
反対に、量をこなす経験が豊富な集団でこの方法を採用すると、+αが量の追加ばかりになって、考える習慣には必ずしもつながりません。
練習が現状打破の手段であり、慣れてしまった時点で効果がなくなるということを常に念頭に置かねばなりません。
難しいところです。結局のところ、集団練習は誰かを切り捨てる要素があるということだと思います。

小瀬談


5/21(火)

いわゆる「ダーツ投げ」をしてみました。40mくらい飛びます。楽です。
してみた理由は、昔から思ってることを確認するためです。
「後ろで弾く投げ」と、「ダーツ投げ」の親和性。
正確には、「後ろで弾く投げ」で早々に限界にぶつかると「ダーツ投げ」に移行するしか術がなくなるのではないか、ということ。
腕をまったく振らずに身体全体をブロッキングして、まるで寸剄のような投げになる。腕、要るのか。

昔々、論文にできなかったテーマがありまして。
投擲種目で静止ポーズをとってもらう。その種目らしいポーズをとってくれ、と。
砲丸だとグライドして立ち上がる寸前(ノーグライドの構え)とリリース直前の力んだ局面をとることが多いのではないだろうか。
円盤だったらファーストターンして上半身が270度ねじれている局面と、リリースの瞬間。
ハンマーだったらローポイントとフィニッシュ後の万歳している瞬間か。
やりはどうだ。ラストクロス後のやりを引いている局面とリリース前の肩が入っている局面じゃないか。
やりだけ、リリース瞬間前後の局面から遠く離れた局面をとる。
これはなぜだろう?
で、やりはリリース瞬間に対する意識の集中が希薄で、技術ポイントとして成立していない。原因は、腕を前に運ぶ技術論が皆無で、競技者の資質に 頼っているからでは?という仮説を立てた。なんて強引な。
さらに進めて、実は肩を入れる局面は、「後ろで弾く投げ」のリリース直前の局面で、はなっから腕を前に振るつもりのない投げで強調される技術ポイントなんじゃないのか?という仮説も立てた。なんて思い込みの激しい。

あながちずれてないんじゃないか、と思えてきた。

腕を前に振る資質に欠けている競技者は、そのための練習をしなければいけないんじゃないだろうか。
資質がある者は一動作で済む投動作を、資質に欠ける者は二動作に分けて習得せざるを得ないんじゃないだろうか。
「後ろで弾く投げ」をいくらしても、腕が前には出てこないんじゃないだろうか。出る者は最初から出るんじゃないだろうか。

こんな文章で共感してくれるなんて思ってません。

小瀬談


5/4(土)

ぶちかましてやろうかと思います。

私の考える技術体系には、ある原則があります。
エキセントリックな事前緊張を絶対に作らない。
もっとわかりやすく言うなら、捻る→捻り戻す、伸ばす→弾く、というような動作は、絶対にしない。
求める力の方向に対して、逆方向に力を事前に加えるという、非循環往復運動は、しない。
具体例を挙げるなら、投げる前に肩を無理に入れない。クロスで右腰を積極的に前に入れて体幹に捻りを作ったりしない。

なぜか。

こういう風に考えてください。
ゴムの素材を束ねたものを捻る。ひたすら捻る。雑巾を絞るかのように捻る。
捻る手を離してみる。すさまじい勢いで捻り戻しが始まる。しかし、一番勢いが
あるのは捻り戻し直後で、惰性で捻り戻しは続くものの、捻る前の状態に戻るとき、勢いは0になる。
捻り戻しは、運動の末端にはさほど効果が出ない。加速がない。運動は捻り戻し直後にすべて終わっている。

じゃあ、これはどうだ。
しなる棒がある。その末端を持って、思いっきり振る。反対の末端は、持っている側の末端に追いつこうとするように動く。
追いつかないようにひたすら持っている側の速度を上げる。ここに「しなり」が生じる。
持っている側の末端を急減速する、方向を変える、のいずれかの操作で、しなりは消え、反対の末端は一気に追い抜く。
ここでの最大の特徴は、しなりが消えた瞬間、勢いが一番ある、ということだ。
むちで音を鳴らす感じだ。
基本、すべて動き続けているわけだから、音がなる瞬間まで、力はどこかに加え続けられている。
間違えてはいけないのは、末端を止めると、しなりの戻りは大して起こらない。

この「しなる棒」と、「捻ったゴム素材」が異なる点は、前者は力を加える手と末端の力の方向が基本同じなのに対し、後者は加える力と作用する力の方向が逆。
共に「しなり」だの「弾性エネルギーを利用した動作」だのと表現されることが多いが、似て非なるものである。

野球のピッチャーの肩前面の筋電図を計測した論文がありまして、球速が速い被験者ほど「反対方向に筋が収縮する」ことが少ない、のだそうな。
自分が肩や肘を痛めまくった頃、往復運動のような肩の使い方に疑問を持ちまして、このような研究成果を見つけました。
さらに、体幹(骨盤)の捻り→捻り戻しって、日本全国規模で見ると、さほど基本と思われていない。
クロスで右脚を積極的に前に持ってくることはどこでも推奨されている。しかしそれは右腰ではない。
腰ラインはクロスステップでは動かさず、投げ動作ではじめて積極的に動かす、という考えも根強いのだ。
その方法だと、動き出してから生じる遅れをしなりとしている。そして、「ブロック」が機能して初めてしなりが弾ける。
このときの「ブロック」は、実はブレーキではない。急激な方向転換で、実際は止まっていない。
動作としては、跳躍動作の踏み切りに酷似する。

身体全体が高い速度で動き続けて、末端が追い抜いていくような動作を理想とする。
末端が追い抜くきっかけは、「ブロック(=急激な方向変化、それに伴う原則も含む)」で起こす。
末端が追い抜いて自然にしなりができるように、関節可動域を高める。
私が考える理想的な動作は、こんな感じです。
今まで教わった人ならわかると思います。

わたしはぶれません。かかってこい。

小瀬談


4/30(火)

考える=言語化する、あるいは科学的表現をする、と思い込んでる人種がいるわけです。
もっと極端なのは、考える=陸上競技の専門用語を多用するようになる、ですね。

投げのリズムとかリリースポイントの位置、やりを押す長さなどの諸々をすべて「タイミング」で表現してしまうとか。
体重移動、軸、腰の開き、膝の抜け、肩ラインの向きや傾き、これらすべて「ブロック」で片付けてしまうとか。

書いてるだけでうんざりしてきたので、もうやめます。
世界が狭いんだよ。

小瀬談


4/18(土)

「よく頑張った、自分」なんて思ったことないです。
そう思ってはいけないと教わってきたからです。そう思うことが恥ずかしい環境で育ってきたからです。
思うことがすなわち歩みを止める瞬間。完膚なきまでの敗北の瞬間。
立ち直れないくらいの敗北感にさいなまれたとき、それに似た感情になったことはあります。
もちろんそこに喜びはまったくない。
よく頑張った、とは、もう努力する余地がないことと同義。
「自分を褒めてあげたい」なんて、金メダルを取ったから言える、性質の悪い冗談だと思ってました。
生理的な興奮をいちいち口に出すのはあまり行儀のいいことではありません。それと同レベルのことにしか思えません。
他人に言われても恥ずかしいことにしか思えません。
要するに、きわめて個人的な、どうでもいいことなのです。
私は少数派かもしれません。しかし、同じ考えを持つ人は少なくないはずです。
物事は始めているかいないか、そしてできたかできなかったか。
私の中で育まれた価値観は、あらゆる自画自賛は恥ずべきものと、仮に思っても人に気づかれないように隠すべきものと語ります。

自分が思っていないことで他人を評価できません。
î頑張ったかどうかで他人を評価できません。私が言う「頑張れ」は、「結果を出せ」という意味です。

やりのラスト2歩は、バウンディングの癖がそのまま現れます。投げの根幹を決定すると言ってもいいです。

小瀬談


4/13(土)

どうして私は試合に出たのでしょうか。ただのお人よしなのでしょうか。

「この冬は一日も練習してません」ってあちこちで言った割には、確認してみると何かを試すような練習は3日ほどしてますね。
嘘つきました。この冬は1週間弱、体を動かしました。

当初、本日はこのチームの会議があるはずだったので、地震があった辺りの時刻から日付が変わる時刻あたりまで予定びっしりの予定でしたが、会議順 延で9時前には帰れました。
で、酒でも飲んで爆睡するはずでしたが、冷静になってもう、こう頭フル回転で、不愉快不快怒り悔しさ諸々で、眠れません。今、午前4時です。

昔から思うのですが、シーズン初戦(人によっては2月)あたりは好スタートを切っても、2〜3戦目で「問題点噴出というか?」と思うような結果に なるということ、多くないですか。
プロ野球で例えると、オープン戦の好調さが、開幕すると消え失せるような、あれ。
他人の試合運びを見てそう感じました。

小瀬談


4/11(木)

今考えてること書きます。

「肩の柔らかさ」と聞いて、大概の人は肩の後ろ方向の可動域を想像すると思いますが、投げには前方向の可動域が必要なのではないかと思っています。
この柔らかさが、投げの腕の後半の使い方を決定する。

日本のやり投げの技術論は、最初から投げの後半の腕の使い方、腕を前方へ運ぶ
ことに長けている者、具体的には投げる習慣ができている者を前提に構 築されている。
だから、動き出し、すなわち肩の後方の使い方を教えることが重視される。
ここで、あらかじめ肩の後方がうまく使える者、鉄砲肩と称される者は、すばらしい素質があると重宝される。
しかしこのタイプは、投げの後半で力が拡散することに悩まされることが多くなる。投げの後半が上手くできないことが多いからだ。

もっと残念なタイプは、肩の前方も後方もうまく使えない者。短距離出身でやりに転向したり、混成選手に多いこのタイプは、身体全体の体重移動しか上手くない。
で、日本ではこのタイプは、「肩を後方を大きく使うこと」をやり投げと教えられることになる。
しかし、腕を前に運ぶ術を知らないから、腕の使い方は「腕を置きに行く」感じになる。
断言しよう。肩の前方の使い方を学ばない限り、このタイプは間違いなく肘を痛める。

肩の後方の使い方、肩の前方の使い方、両者の統合の仕方。
この3者が揃って始めてやり投げになる。
最初の2者を教わる順番で、投げのタイプが大きく変わる。
最後の具体的な手段は、一番シンプルなものでは「的当て」。ただし地面ではなく、目線より高い位置の的に向かっての的当て。

既存の常識、自己の普遍性のない体験、それら一切を根底から覆す、知の再構築をしなければいけない感じです。

小瀬談


3/30(木)

年度末です。
来年度の方針を述べます。

基本的にほとんど変わりませんが、「多種多様な投げに対応する」から一歩進めて、私に求められる役割がトータルコーディネーターというよりもむ しろトピックス・コンテンツの提示であるようなので、そこらへんを重視します。
まぁ、そうしないと週1しか来ない会員様に対応できません。
具体的なコンテンツの提示としては、肘痛に対応する投げ、です。自分なりの体系が出来上がったので。
「肘が痛い」「こんな投げにしたほうがいいよ」「・・・難しい」
「じゃぁずっと痛がってろよ」・・・そんなことになるかもしれませんが。
前回も述べましたが、私は競技の純度を求めていきます。陸上競技は個人競技です。「独り」であることが重要なのです。
自分で考えない、部活のような楽しさを求める向きは、私にそれを求めないでください。私からは一切提供しません。

胎中父の投げは正直わたしが早々にあきらめた投げの流れです。
刺激が多いです。
ここ数ヶ月で私が気づいたり思い至った投げの技術の話は、いずれまた。

小瀬談


3/12(火)

既成概念を覆すオランダのピッチャーの投げ方。

中学生の様なド初心者に突き刺しから教えるとき、「肩を入れて胸を張って」投げさせるべきかどうか、非常に悩みます。
肩ラインが開く、腕が振れず穂先が上がる、ブロックしてから腕を前に運ぶなどという、そこそこ経験を積んでから顕在化する問題点は、一番最初のこの時期に蒔かれた種が発端だと思うからです。
あえて教えて自分で矛盾に気づいてもらう、というのもありか。そんな深謀遠慮を仕掛ける必然性はあるのか。

少しだけ突き刺しをしてみて、ここ1年半くらい思っている、「肋骨が邪魔」という感覚がどんどんはっきりしてきてます。
体幹の感覚を消すためにも、これは避けて通れない。投げるため「だけ」に身体感覚を再構築する。
投擲競技は、身体能力を追及しだすと、走、跳、筋力・・・・・すべてが必要という、超人志向になりがちです。
本当にそうなのか。それでは、遅れた者は永久に追い着けないのではないか。背が低いなどの、先天的形質に差があるものに勝ち目はないのではないか。
そうじゃないと思うのです。競技志向とは、「その種目に対する純度を高めること」だと思うのです。
つまり、投げならば、「投げしかできない身体」を作ること。ここには健全という言葉は当てはまらない。その身体に健全な精神が宿ることなど期待していない。
ここで培われた身体で、健やかな日常生活ができるなど考えもしないし、他の楽しいスポーツライフが展開されることも想定されていない。
それの何が悪いんだ。その程度の純度を求める者を包括する余裕も、この社会にはないのか。
スポーツを文化と呼ぶなら、それくらいのバリエーションがあっても当然ではないのか。
絵画に写実的なものから印象派的なもの、抽象的なものなどがあるように、音楽に古典的なものからフォークロアなもの、ロック、パンク、デスメタ ル、歌詞にメッセージがやたらこめられているものに至るまで様々あるように。
そして、教育的に良いと思われているものとそうでないものがあるように。楽しいという言葉で表現されるものと、極めるという言葉で表現されるもの があるように。

「純度を高める」

私はこの方針で考えていきます。

小瀬談


3/2(土)

みんなこの季節好きか?俺は嫌いだ。
そもそも春は大嫌いだ。戦闘モードに入る直前の、制御できない感じが本当に嫌いだ。

練習に投げを入れるようにしています。
まあ、上手くこなせてるように見えます。
本人は楽しそうに見えますが、当事者でない自分はどうすればいいのかわからない焦りで、どうにもこうにもなりません。
現役時の自分は、この時期は本当に失望の連続でした。自分を奮い立たせるのに必死だったように思います。

小瀬談


2/26(火)

どっかのテレビ局が、世界選手権優勝者を「60億人の1位」と表現していたような気がしますが、それがとんでもない思い上がりであることは言うま でもありません。
陸上競技をしているのは、世界中の人類のほんの一部です。
そして、どの種目も人類の限界なんぞにまったく届いてません。
以前も書きましたが、100mはí60年代半ばに登場したオールウェザー素材に適応するのに50年かかっている(そしてまだ途上)と思いますし、 三段跳びやハードル、競歩などの、陸上競技にしかない動きをするものは、どこが限界なのかさっぱりわかりません。
円盤投げは、古代オリンピックで行われていたからというだけで、なぜこういう形状のものをこういう投げ方で投げなければならないのかの必然性はないです。
多くの人が勘違いをしています。陸上競技が、最小限のルールの下。人類の限界の向かってチャレンジしているものだと。
そんなことはありません。
陸上競技は、取り立てて根拠のない価値観に基づいて作られたルールに、深いところまで縛られた、窮屈なスポーツです。
だから、少し冷静になって、醒めた目で傍目から見れば、「なぜあんなことしてるの?」「なぜあんな練習してるの?」といったことばかりなのに気づ きます。

で、やり投げは、そういう意味で、突っ込みどころ満点な種目です。
やりってのは、そもそも遠くに投げるためにああいう形状になっているものではないと思います。
投げ槍は、中距離の飛び道具です。武器です。
細長い形状は、武器として有効であるために、直進安定性を生むための工夫だと考えるべきです。
じゃあ考えてみましょう。現在見聞きできる、「上手く」やりを投げるための技術は、「遠くに投げるための工夫」と言えるのか?
遠くに投げるため「だけ」の工夫ではないのではないか?技術の純度は決して高くないのではないか?
そういう理由で、私は、一流であるなしに関係なく、やり投げの技術の完成度は、他の種目と比べてかなり低いと考えています。
考えようによっては、これはチャンスです。世間で流布しているやり投げの「基本」、たぶんこれは、「概論」に過ぎません。
男女問わず、高校生も大学生も、いま自分が考えてることが、真の基本かもしれません。
大体ですよ、世界のトップクラスの動きが、各々あれだけ違う種目が他にあるか?あるかな。言い過ぎかな。
まぁ、究極とか限界とかには程遠いレベルだと思います。

だからですね、この種目は、「基本」や「手本」に忠実な者よりも、まだまだ自分なりのカスタマイズをした者こそが上に行けると思うのです。

小瀬談


2/21(木)

チェコスロバキアの英雄「人間機関車」エミール・ザトペックは、'40〜'50年代にかけて、インターバル・トレーニングの脅威を世界に知らしめ た人です。
というよりは、彼が行っていたインターバル・トレーニングが、世界を震撼させたというのが正しい。
練習メニューの詳細が公開されています。毎日毎日毎日毎日、延々とトラックを走り続ける。最終的に至った距離と本数は、400x100。タイムは 60〜90秒。
実際には、調子の出ない日は設定タイムを落としたりの工夫はされていたようですが、運動生理学が長距離に影響を与えだす時期まで、このインパクト は世界の長距離関係者の呪縛となっていたように感じられます。

陸上雑誌にはいろんな練習メニューが公開されてます。書籍もいっぱい出てます。
一人で練習する人は、参考にすることも多いでしょう。
しかしですよ、総じて、「楽だ」と感じませんか?
原因はいくつか考えられます。
1.本音を書いていない。一部しか書いていない。
私が知っている強豪校のセンセイたちは、雑誌の連載では明らかに少なめに書いてました。公言もしてました。そう簡単に手の内を明かせられるか、ということです。
このようなものを読む人たちは、自分たちと同じ陸上競技関係者です。「自分で考えろよ」というのが一番の本音なんじゃないでしょうか。
2.伝わってない。
ザトペックの例でもわかるように、詳細を公開したところで、ザトペッククラスの競技者が次から次へと現れたわけではありません。
結局、センセーショナルなだけで、「やれるものならやってみろ」「できると思うなら結果を出してみろ」というメッセージにも思えます。

企業向けのセミナーとかで「成功する秘訣は」というテーマで講演する人の中で、「そういうものを聞きに来る時点でお前は成功しない」とばっさり切り捨てる人がいます。
嫌がらせに等しい言い草ですが、正論です。
学生時代、資料をいろいろ調べて、「これらの情報は、若い未熟な競技者の将来のために公表されているなどと、都合のいい解釈をしていいんだろうか?」と、よく感じました。
現場からのケーススタディな報告。論文として公表される科学的データ。自らも研究を志向するに当たって、公表することの意味をいろいろ考えた時期 があります。
誰のためだ?
「試されている」。厚意ではなく、冷徹な目で。100人試して99人が失敗しても、彼らは良心の呵責など感じない。むしろ、成功する1人のいい肥やしになるとでも思っている。
力尽きて累々と横たわる肥料でいいのか。自分がそっち側でいいのか。

コーチって、この場合の立ち位置はどこなんでしょうね。

小瀬談


2/19(火)

この時期にきちんと練習してくれたのは、過去に5人しかいません。
関西で一番ハイレベルな大学に通っていたH君、今は野球の指導現場に関わることを目指しているS君、高3の後半になぜか詰めて来てくれたN君、実 働半年で近畿IHに出場できたH長女(友人はシーズン入ってもとのスポーツに戻ったので却下)、中学でここまでやりを覚えるかというレベルにまで 行ったY次男。
前半の2人は、正直申し訳ないことに、私の詰めが甘くて、結果がいまいち伴わなかったのですが、「ひたむき」という言葉が合いました。
N君は、私が得ることが多かったです。感謝しています。指導は「考え抜かねばならない」ことを教えてくれました。
後半の2人は、とにかく一生懸命でした。いつも疲れてました。かなり無茶な要求もしましたが、言うことを聞いてくれたのが勝因です。

わからないことがいっぱいあります。
この時期に合宿するのはなぜか、とか(母校の大学に合宿する習慣がないのです)。
練習にむらができても平気でいられるのはなぜなのか、とか。
故障しても危機感がないのはなぜか、とか。
わからないことをわからないままで済ませられるのはなぜか、とか。
集団で練習したがるのはなぜか、とか。
人生を賭けているはずのことに一日のわずか数時間しか費やさないことが当たり前でいられるのはなぜか、とか。
平然と「自分は一生懸命です」と言ってのける神経はいつはぐくまれるのか、とか。
つらいこと、悔しいことから目をそむけることをポジティブシンキングとほざく無神経は誰から教わるのか、とか。
楽なことを楽しいことと混同する、自分への甘さは誰が許してくれたのか、とか。

小瀬談


2/14(木)

クラブチームで練習するのが遊びで、部活で練習するのが真剣で真面目だと思い込んでるような輩は、みんなまとめて相手になってやる。

褒めて育てる、というのに、あまり信を置けません。
・・・教わる側の視点で考えてみます。
長期間指導されると、自分のレベルが見えてくるでしょう。自分の未熟さが。
なのに、そこを指摘されるわけでもなく、なぜかずっと褒めてくれる。
なぜだろう、って疑問、わきませんか。
もしかしたら、自分は指摘されるべき箇所が多すぎて、数少ない無難な点を褒めるしかしょうがなくなっているのではないか。
褒めざるを得なくなっているんだ。哀れだから。指摘するのも可哀想だから。
それに気づいたとき、いたたまれなくなって、立ちすくんだまま涙がぼろぼろ出て仕方ないような、惨めであることが初めてわかったような。
褒められているうちはお客様なんだ。機嫌良く帰っていただくことが第一の目的なんだ。
嘘つかれてその場で取り繕われて、偽りの充実感を与えられて、体よく帰されているんだ。

「自分は褒められて伸びるタイプです。」
お客様扱いされている自分に気づかないのか、目をそむけているのかのどちらかだ。
目をそむけるのは自由だ。自分に厳しくするのには限度があるから。
しかし、気づかないのは、滑稽なまでに哀れだ。

厳しさとは、きつい口調や体罰、制裁的な練習で与えられているうちは、単なる強要に過ぎない。
手を抜く選択肢を用意しつつ、どうするかを本人に任せることのきつさを、よく考えてほしいと思うだけだ。
これをパワハラと呼ぶなら、ずっとお客様に甘んじてろ、と言いたい。
練習の雰囲気をあれだけゆるくして、雑談もたくさんして、くっだらないことも言って、なおかつ褒めてもらいたいか。
ずいぶんな欲しがり屋さんだな。

・・・っていう話をしました。
前半は、大学入学して最初の2年の、実体験からの話です。
今日は少し練習に隙間が開いたので、ここ2週間で導入した練習以外に新しいことは試してません。
ちょっと遅れ気味な気がしないでもない。

小瀬談


2/12(火)

20年前のこの時期に、飛距離はほぼ同じだが腕に力が入らなくなって、握力が20kgくらいまで落ちて、肘・肩に複数の損傷が見つかった。
手術するにしろしないにしろ、従来と同じ競技続行は不可能に思えたので、手術せずに投げを変える3年計画を立てた。
当時25歳で、記録が上がっていくピークが30歳だろうという予想の元に、である。30歳を過ぎると、雪崩のように衰えていくという確信があっ た。
そして40歳でほぼ底になる。この予想は見事に当たった。
3年計画は、言わばぼろぼろになるまでのカウントダウンである。
1年目は、上肢を0−ポジション周辺10∞の円錐範囲内でしか動かさず、身体後傾を一切作らず、前への重心移動だけで投げる「フラットライナー投 げ」。
2年目は、体幹のねじれを作らず、肩を後方に残さず、腰ラインを90∞回転させるだけで、ためは自然にできる範囲でしか利用しない「ボディターン 投げ」。
3年目は、上記2つを統合し、右膝を落としながら、高めの保持から滑り台を滑り降りるように腕を振り下ろす。軸を前方の左脚に置く。
こうして、ハンドボールのポストシュートみたいな投げが出来上がって、3年目の4月2日に、現在の生涯記録が出ている。
予定では3ヵ月後の7月の県選手権にあと7mほど伸びるはずだったが、1投目で、自分でも改善の余地ありと思っていた左ブロック脚の接地時に、ア キレス腱が切れたかと思う激痛で万事休す、となった。その激痛の箇所は今でも微妙に凹んでいる。

で、20年経た今年、ようやくこの投げの形をフルモデルチェンジできそうである。ただし、記録が伴わない。毀れているから。
て言うか、試合はもういい。
左ブロック脚の接地の改善がきっかけで、やっと体幹のイメージが消せる。
しかしまだ腕が重い。そ う思わせる原因は、肩の意識が濃すぎる点だ。
今のイメージをつめていくと、ノーリバースになりそうである。両足を踏ん張る、のではなく、リリース後の右足の出方が、少し特殊になる。
左腕の使い方とあわせて、やりに高さを加える(角度をつけるのではない)術になるのではないかと思っている。

多分見た目は地味な投げ。
黙っていれば誰も注目しない投げ。
自分では100%の完成を期待できない投げ。

小瀬談


2/7(木)

暴論を承知で言ってみる。
陸上競技経験者を名乗る者の9割が、実は陸上競技を知らない。
経験し、知っているつもりになっているのは、部活である。
部活は部活以外のものではない。部活は文化には高められない。
それこそ、世間が蔑む意味で使っている「遊び」である。
考えてもみるがいい。世間の部活に対する評価を。子供がするものという、最初から眼中にない感じを。
部活経験は、発展的に完全否定されなければならない。
人生の中で「文化」として競技を位置づけるなら、永遠に続くと思い込む若さへの盲信を捨て、パフォーマンスが最高になる時期、衰える時期、フェー ドアウトする時期を、自分でプロデュースしなくてはならない。いずれは頂点に立ちえなくなる自分に折り合いをつけなければならない。

だから、いかなるレベルでも、楽しいだけじゃだめなのだ。生き様を反映する対象として競技を選ぶことが、酔狂と思われるようではだめなのだ。

前日からかなり体調悪いです。
ちょっと動いただけで頭くらくらします。
しかし、体の痛みが語ります。
これまでの投げのイメージが完全に過去のものになりつつあると。
ブロックしてから腕を残し、肩を入れるイメージが、動作習得の段階ですでに悪影響を与えていると。
腰を水平に回すイメージが、腰が入っていない動作そのものであると。

小瀬談


2/5(火)

丹羽君インフルでダウン、中学生一人。
来やしねえ。今年度は本当に来ない。

私はイギリス発祥のスポーツがおしなべて嫌いです。
テニスとかラグビーとかゴルフとか。
理由は、ルールや理念にわけのわからん精神理念が入り込んでいて胡散臭い。
具体的に言うと、最初から当事者以外の第三者、観客が想定されている。そいつらにどう見えるかをやたら気にする。
だから嫌い。
・・・ちょっと深く考えてみると、イギリスの貴族社会の雰囲気をそのまま反映していると言えなくもない。
だとすると、プレーヤーも英国貴族、第三者も自分がプレーするのを待っている英国貴族。
そう考えれば、ルールに第三者が想定されているのも当然かもしれない。
が、時代は進み、この第三者は、スポーツの興行化と共に、上から目線の自分では何もしないくせに一人前にうるさい、プレーヤーは自分たちに感動をもたらすのが義務だといわんばかりの、うざい「観客」に変貌している。
スポーツの観客には2種類あると思うのである。格闘技の観客に見られるよう
な、プレーヤーを下から崇め奉る、神事でテンション上がるような人たち と、前記したような上から目線の連中。

スポーツ・武道・身体運動にまつわる、病的な教条主義がここにある。

小瀬談


2/2(土)

2月。

いろんな人にかなりきつい練習を課しているのはわかったが、質が高く量もこなす練習を本当はしたいのだ。
正味、4時間の練習の前半2時間しかしてない、という感じである。

小瀬談


1/31(木)

がっつりやります。

記録が長年伸びてない者は、練習が「変化しない」ためのものになっています。
いわゆる「訓練」で、そういうのが必要な仕事もあります。
部活の練習がそれになっているものも少なからずいます。
「変化する」ための練習を一生知らずに終える者はきっと多い。
断言します。冬季のこの時期になっても「変化する」ための練習をしていない者、知らない者。
あなたたちはまったく練習をしていないのと同じだ。何も知らないのと同じだ。
最初から何もしていないのと同じだ。
競技をしているつもりなんてちゃんちゃらおかしい。

↑全部自分が過去に言われたことです。

小瀬談


1/29(火)

今月はリカバリーだ。
だからあまり練習内容を考えてなかったら、ひとつ見事に端にも棒にもかからん種目をさせる羽目になった。
すぐ修正した。

小瀬談


1/26(土)

1月はなかったことにしなくてはいけない。
さあ、一から考え直そう。

自分で試した、台に乗る練習のカスタマイズは完成度80%でしょうか。
意外と使える。

小瀬談


1/24(木)

ここ1年ね、うんざりなんだ。物足りないんだ。

自分を車に例えてみる。
で、その車でレースに出よう、と思い立つわけよ。
あなたなら、どのくらい金かけます?
自分のことをポルシェとかそういう類の車だと思うなら、ノーマルでレースに出る。
エンジンはいいが普通の車なら、足回りとかをいじる。エンジンも少し手を入れたり。
いまどきのよく走る軽なら、出るレースを選んで、レギュレーションで不利にならないもので勝負する。
じゃあ、中古のファミリー用途、1300cc100馬力未満な、自転車でいうとママチャリみたいなスペックだとしたらどうよ?
で、よりによってレギュレーション無視の0-400に出てみたい、と思ってしまったら、どうよ?
どうやって勝負するよ?
さらに、どうしても車検通って一般道でも走れる水準を保ちたいかよ?
そもそも、その車をぼろぼろになるまで乗るつもりなのかよ?

マイケル・ポラニー『暗黙地の次元』でも語られているが、伝統芸能において技術の習得が、個々の技術をそれぞれ伝授するよりも、世界観・形式ごと 教え込む方法をとることがある。
スポーツでもそれは例外ではなく、陸上競技をする=陸上競技的な練習を覚える、というコンテクストが存在する。
中・高生の部活なんかその際たるものだろう。
それでいいのか。

今日も自分の練習をしました。
台に乗る練習をカスタマイズしてます。
今考えているボディイメージは、
1・脚が脇の下から生えている。
2・腕は縒りワイヤー。
3・「体幹」の概念を消滅させる。

3は、脇の下まで伸びた脚がダイレクトに上肢につながれば完璧です。
クロスでつなげるかストレートでつなげるか、まだそこは検討の余地があります。
腕の大きな動きを追求すれば、体幹という概念は邪魔なんじゃないかな、と最近思うので。

小瀬談


1/19(土)

競技者として「現役」である基準は、レベル・年齢に関係なく、変化を求めることだと思っています。
一言で言ってしまいましたが、結構厳しいはずです。
結果、現状維持をしているようにしか見えなくても、変化を求めた結果であればよし。
しかし、たとえば例を挙げると、高校・大学最後のシーズンを控えて、持ち記録がそこそこあって、怪我さえしなければ勝てるから、というのりで冬季 を過ごす。
まず失敗する。もはや引退したと同じだからだ。そして心置きなく引退してくれる。
冬季練習をルーチンワーク化して、とりあえず疲れる。中高生ならともかく、大人は自然成長しない。ただ練習耐性ができるに過ぎない。
自分自身で変化の芽を息吹かせない限り、絶対何も変わらない。
怪我をしてもとりあえず休んで、直ったらまた同じ練習・技術・試合運びを繰り返す。まあ同じ怪我をする。
自分じゃわからない。怪我をした自分はついてない、悲劇の主人公に思いがちだが、客観的に見れば、同じミスを性懲りもなく繰り返す●●だ。
そもそも、怪我をしたら「変わらなければいけない」のだ。もう同じことはできないのだ。
運命が、自然の摂理が、それまでの自分を拒絶したことに気づかなければいけないのだ。
変化を求めない、受け入れないのは現役ではない。すなわち、競技者足り得ない。
ただの運動好きだ。
悪いことじゃないけど。
長年、大学の競技環境というものに疑問があって、その原因が、大半の者がそこで現役を終える故の雰囲気にあるんじゃないかと思ってます。

投げるときの「開き」を抑える手段として、肩ラインをクローズドにするのは誰しも思いつきますし、手軽で、筋力があればいくらでもできます(と 思っている)。
でも本当に開くのを抑えたい部位は腰ラインであって、難易度はそちらのほうが高いのではないか。
中途半端に開いた腰ラインを、肩ラインの操作で無理やり固定させる。
体幹の捩り、と称される動作、すなわち左足接地時に骨盤を正面に向け、利き腕を後ろに大きく残す(肩入れ)は、実はこの腰ラインの中途半端な動きを導き出していないか。
本当に「体幹の捩り」にこだわるなら、骨盤は最初から正面に向け、動かさないことを前提に動けばいいんじゃないのか。
・・・てなことを考えて、自分がなぜ三流だったのか納得できた気がします。
腰ライン、骨盤操作が練りきれてない、甘い。精度が低い。左右回転と前後回転ができる、切れがあるだけじゃ全然だめだ。本当にだめだ。
そう思ってもすでに私の身体はフェイドアウト以外の変化を望んでいないのである。
苛立つのである。

小瀬談


1/12(土)

いろんなことが思うように運びません。

やりきった達成感などで満足させないために指導者はいるのです。

小瀬談


1/10(木)

経験は何の役にも立たない。
経験は、その瞬間から陳腐化する。

何も知らない人間に眩暈を起こさせるようなまねは今年からもうしません。
全力でいきます。
どこよりもクオリティの高い環境を築きます。

小瀬談


1/8(火)

寂しいというか悔しいというか、そんな感情だけで一日が過ぎる。

どうも振り返ってみると、過去に指導した人たちの多くが私に求めていたのは、「技術的な指摘」であって、練習メニューではないような気がする。
だから、技術面でこちらが小出しにしたり、相手にも考えるように促すと拒否反応を示されているようだ。

練習メニューの構成も含めた技術論のつもりではあるのだが。
正直、予想外だった。

あと、陸上競技以外のスポーツを長くしていた人ほど、私のやり方がはまる傾向がある。
基本という名の概論に当てはめず、個々多彩な技術を展開させる、という目標を掲げている以上、もうすこし柔軟に対応しないといけない。

ただ、齢45を迎えよう今になっても、私は自らの知識、技術体系に確信が持てていない。自信がない。
私ごときが知る程度のことなら、各々が調べたらすぐわかることだろう、と思っている。
しかし、他の人間が代わりに指導する、ということになったら、嫉妬の炎が全身を包む。
たちが悪い。

自分を出し過ぎている。

小瀬談


1/5(土)

あけましておめでとうございます。

一応そう言っておきますが、それらしかったのは今週の3日間だけです。

日々自らの言葉や知識が軽くなっている焦りを感じます。現役続行程度で重みが増すような次元ではありません。
これは紛れもなく生命力の低下です。もはや望んでも手の届かないものなのかもしれない。

沈黙は無。思考停止は自己の存在の否定。

小瀬談