11/20(火)
こんなこと、一度しか言わない。
受験の小論文とかで、「異文化交流」や「先端技術の導入」とかがテーマになった場合、
「自分にとってよいものと悪いものを見極めて、よいものだけを取り入れる柔軟さが必要だ。」
という論調で答えるべき、という指導をしている予備校とかがいまだにありますが、そんな内容で書いたらまず落ちます。
比較文化論の分野では、このロジックが持つ盲点が30年以上前から指摘されてます。
すなわち、何を基準にして「よい」と「悪い」を決めてるのか、ってことです。
自分の立場がどこにあるのか、ってことがこの考えからは欠けている。
実例を挙げると、古代ローマの奴隷制度も原理主義なイスラム社会も東アジアの中華思想も日本の主従社会もすべて「自由」という基準軸で判断するキリスト教文化。
あの、自分の信じる神以外は全部「異教徒」と断罪する彼らが、歴史的・地域的背景を無視して「自由」の名の下に言いたい放題言っている、あれです。
じゃあ自分の基準軸がしっかりわかってればいいのか。そう簡単ではない。確固たる基準軸は、つまり自分を相対的に、客観的に見るつもりがないことの表れだろう。
だから、場合によっては自分の基準を全否定するとか、自分の知らないことをすべて取り入れて消化不良を起こすとか、それで生じた軋轢を忍耐強く逃 げず避けず意見を戦わせることこそまさしく異文化交流、技術の進歩、価値観の変化だ、ってまぁ前世紀末はそういう流れでした。
↑こいつのポイントは、自分をいかにわかってるか、という点なのだと思います。
そして、自分を現状から変えたいなら、自分をわかった上で、好む好まないにかかわらず、場合によっては自己を全否定する覚悟も必要なのだと思います。
だから、冒頭に書いたような考え方は、柔軟でも何でもなく、保守的な、変わるつもりのまったくないものに聞こえます。
このような立場で選ばれる「よい」ものは、保守的な変わり映えしない自分を固めるものに過ぎないのではないか。そんな危機感はないのか。
「よい」か「悪い」かわからない。そう片付けてしまうのは現実逃避じゃないのか。それを他人が教えてくれる。都合良過ぎないか。
安全な場所にいて、正解を誰かが教えてくれて、何も考えずに自分にとって心地良いかそうでないかだけで正解にいたる方法を選ぶ。
正解(のつもりであること)を教えてくれる人間が、そんな人間を、どのような思いで見つめているか、想像できるか。
正解は他にもあって、そこにいたるまでの方法を提示して、実際にさせて、自分なりにアレンジする余地を与えても、自分で他の正解に至る機会を与え ても、「わからない」で済まし、「自分にあった方法で・・・」とか言い出したら、変わるつもりなど毛頭ないと思われるのは当然じゃないのか。
少なくとも必死だとは思わない。
真剣、真摯な態度とは、くそまじめではなく、必死なことを指すと思う。
どうやったら物が遠くに飛ぶかとか、そんな情報はそこらに腐るほどある。
映像も動きのコツも、練習法まで知れ渡っている。
それをただまねるだけでいいなら、練習なんか何も難しくない。
しかし、残念ながら個人差はあるのだ。同じことをしてもみんなが同じような結果にはならない。
自分が他人と比べて何が楽にできて、何が人よりへたくそなのか、それこそが個性だろう。で、競技者であるならば、そのままで済ましてはだめだろう。
変えてかなきゃだめだろう。怪我を言い訳にしてはだめだろう。怪我する自分を突き詰めてかなければだめだろう。
わからなくても考えなければだめだろう。
同じことを漫然と繰り返し、解決方法を過去の自分に見出そうとする者に、誰が手を差し伸べられるのか。
答えが天から降ってくる、自然に湧いてくるように思えるのは、若いうちの一瞬だけだ。
若い頃を思い返して、「あの時こうしていれば・・・」と思うことが、叫びたく
なるほど、死にたくなるほど苦しいことだということを、いちいち説明 しなきゃだめか。
これだけは言っておく。
私は必死に考えている。
小瀬談
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