11/30(火)
今日は跳びました。跳んだだけでです。
東田さんはいろいろ自分で気づいてくれるので助かります。
私がこれまで受けた指導の中で、もっとも理不尽、無意味、低レベルだと思ったものは、「しっかり走れ」である。一歩一歩足をしっかりぐっと踏みしめてしっかり走る、だそうである。腕もだらっと下げず、手のひらは握って。アップのジョグでね。大学に入ってあれほど失望したことはない。「しっかり」はただでさえ主観なのに、運動当事者のものではなく思いっきり第三者のものだ。もちろん聞きませんでした。「一歩一歩足をしっかりぐっと踏みしめて」。ここがだめだ。
で、2番目に受け入れられないのが、「まっすぐ投げろ」(やり投げ)である。理由は2点ある。
その一。
まず、「まっすぐ」という言葉の定義をきちんと説明していない。どこに対してまっすぐなのか。投擲物の角度に対してか。保持している手からか。目線か。正中線か。この時点で、この言葉が第三者の主観から語られている気配が濃厚だ。残念すぎる。目線の正面、正中線の延長にやりを投げると、やり自体は実は左に投げられている(右利き)。やりの飛ぶ方向に「まっすぐに」投げるなら、この場合 穂先は左を向いていなければならない。つまりどこかでまっすぐじゃない方向にしなければ、正中線の延長にまっすぐやりが刺さることはありえない。やりを真後ろに構えて、そのまま地面にやりを置くと、体の厚みの分だけ穂先は右を向く(右利き)。だったら、その角度に投げるのが「まっすぐ」 だ。絶対に正面ではない。
その二。
「まっすぐ」投げるための工夫を説明していない。やりの投動作は左右非対称で、しかも直線運動ではない。だから、あんな長いものをまっすぐ投げるには、単純に「まっすぐ」動いていたらまっすぐ飛 ばない。ここで「まっすぐ」にこだわりすぎると、肩ラインが投げる方向に垂直になるようにしっかり前を向き、押し出すように腕を振ることになる。肘をいく ら伸ばしていても、この投げだと絶対一旦肘を下げる。そして伸ばす。この投げ方は論外だ。曲がった肘を伸ばす局面しか、腕を使っていないからだ。 後ろに構えた意味がまったくない。
「まっすぐ」投げるための工夫は、直線的に動かない腕よりも、むしろ体幹のイメージのあり方に左右されると思う。たとえば、ドイツに多く見られる投げは、体幹を「しならない大きな筒」のように使う。腕はやりを下から上へ持ち上げるように使っているように見える。
北欧だと、体幹は「太い鞭」。腕は体幹の延長。腕は前(少し下)へ弾くように使っているように見える。
日本の伝統的なイメージは、体幹が「硬くて細い板」。ねじれるはずのないものを無理やりねじる。腕は板の末端に引っ付いているさらに細い棒。使っ ているのはねじれている部分だけ。やり投げといえば細い人のイメージがある日本では、多分このようなボディイメージがあるんじゃないかと思う。これだと確かに正面に投げやすいでしょう(細かい説明省く)。でも正解だとは思えない。このボディイメージは決して「鞭」にはなれないし、「筒」 にもなれない。そしてどちらにも勝てない。想像してみても、あちこちが痛くなるようにしか思えない。
今、自分が考えている体幹イメージは、「ねじればね」です。どちらの向きにもはねかえってくるねじればねなんてないですが。もう少し練る必要があ ります。
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